12/17(月) 8:57 配信 ツイート Facebookシェア はてなブックマーク Pocket四大公害の一つ、四日市ぜんそくの発生から半世紀以上が経った。石油化学コンビナー
通水管ト企業による排煙は深刻な健康被害を引き起こし、息のできない苦しみに自ら命を絶つ人さえいた。企業に損害賠償を求めた四日市公害訴訟の原告患者9人のうち、存命なのはただ1人。当時を知る世代は減り続けている。それでもなお、懸命に歴史と教訓を
通水管次世代に伝えようとしている人たちがいる。生きたり死んだりした生活「吸うときは吸えるけれども、吐くとき、空気が出ていかなくて苦しい。『先生助けてくれ』と病院に駆け込んで注射を打ってもらうと、すっと息ができるようになる。生きたり
通水管死んだりしたような生活を10年ぐらい続けたかな」「30半ばで病気になって、元の体に戻してほしいと思うことはある。長生きはできたが病気がなければもっと健康だったし、融通のきく体だった。もっと稼げた、働けたと思うと無念だ」
通水管野田之一さん(87)が子どもたちに語りかける。8月上旬、三重県四日市市の「四日市公害と環境未来館」の講座室には地元の小中学生約20人が集まっていた。原告患者9人のうち、唯一存命の野田さんは、長年、語り部活動を続けてきた1950年代
通水管、四日市市の臨海部にあった旧海軍の「第二燃料廠(しょう)」跡地にコンビナートの建設が決まった。地元の人たちは石油化学企業の進出を歓迎したという。漁師だった野田さんは当時を振り返る。「(人口が増えて)四日市に名古屋みたいな市場
通水管が必要になるぞ、漁師はもうかるぞ、と“にわか大名”になったみたいに喜んだ」沿海ではスズキやカレイなどの高級魚が豊富に取れた。だが1959年、第1コンビナートの本格操業開始からしばらくすると、排水によって海に異変が起きた。油の
通水管中につけたような臭いがする魚が発生し、売り物にならない。市内では、コンビナートの煙突から排出される亜硫酸ガスが原因となり、ぜんそく患者が相次ぐようになった。野田さんも30代前半ごろからせきが出るようになり、ぜんそくの診断を受けた。 #=========#